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ナショナリストや愛国心はクリスチャン・リーダーにとってたびたび頭痛の種となり、多国籍から成るチームをマネジメントする責任を持った教会や宣教団体のリーダーたちに、他ならぬチャレンジを与える。このようなことから、世界宣教という文脈において、ナショナリズムの影響やその意義を理解する必要性が求められている。

一般の人が恐れにさいなまれる一方で、教会はしばしば、神の国のビジョンを示すことに奮闘している。ある場合には、教会は、意図的であっても、そうでなくても、ノンクリスチャンの移民が流入することを何とか防ごうとする愛国的な同盟のようになっている自身の姿に気がつくことがある。とりわけ、ナショナリストは、事実上、世界中で見られるような、均一化の勢力に逆らって異を唱えるものである。グローバリゼーションに抵抗するために、ナショナリストは大抵、「フロンティア」という神話や、「神聖な起源」という神話といった、神話的な主張を代わり用いるのである。

ローザンヌ運動が、情熱という推進力を得ながら、世界規模の一つのキリストのからだというビジョンに仕えていることは、全く適切なことであり、神の国のビジョンに相応しいものである。しかし、国家の利益や福音派グループの方針と、ローザンヌ運動のリーダーたちが力説するグローバルの方針との間に、常にバランスを保つことが必要である。

世界各地に局在するミッション・チームは、争いが起こっている国家、例えば、現在のロシアやウクライナといった国からメンバーを受け入れることもあるだろう。賢明なチーム・リーダーであれば、愛国心や国家主義的な感情を中心として取り巻く「断層線(地震地帯)」のように、チーム内の白熱した議論に備えをするだろう。

どのような国においても、国家利益の核心的な部分については、他国のマスメディアによって報道されるものではない。とはいえ、多文化と関わり合うクリスチャンの賢明な働き手は、ナショナリズムがその醜い姿をあらわにし、信頼できる証を台無しにしてしまう恐れについて、常に警戒している必要がある。

無論、信仰を持ってイエス・キリストに付き従う人にとって、ナショナリズムが悪となり得るのは、国家のアイデンティティを他国に対して振りかざす、求心力のある道具としてキリスト教を用いる場合においてである。信頼のおける、賢明なマスメディアの解説者であれば、一般的、あるいは政治的な対話において、宗教のそのような影響を認識するだろう。

福音主義者は、時折、自国の政府と結束することを選ぶこともあるが、そうすることは必ずしも悪いことではない。しなしながら、他者に自分たちと同じ人権を認めないような倫理的な偏重や、政治的な優位性を意図するものであれば、国家のために協同することはできない。

この考え方は、国家についての聖書神学を反映するものである。すなわち、神の偉大な創造の働きが現わされたこと(創10:32)、著しいごう慢に対して悲嘆があったこと(創11:4)、神の宣教の働きの中心に据えるという宣言があったこと(創12: 2-3)、全ての国々をキリストのからだとしてひとつに集めること(黙 7:9)などに基づく。しかし、最終的には終末論のシナリオとして国々が神の前に降伏し、裁き(黙19:15)を受けると結論付けられる。クリスチャンのアイデンティティと忠誠心は、常にただキリストだけに対するものである。その他のどのような忠誠の形態も一時的で、いずれは廃れ、最終的には全ての国と民族の裁きの際に、意味のないものだと露呈するのである。

私たちが本能的に感じ取る、あるいは同労者や私たちが仕える人に対して表す、あらゆる不公平や優位性について悔い改める必要がある。また、私たちのミニストリーやミッション・チームにおいて、ナショナリストによる緊張関係の源となり得るものの特定に取り組まなければならない。そして、ナショナリストによる緊張関係を体験するだろう場所に送り出されるチームに対して、訓練を提供する準備をしておかなくてはいけない。