May 2014 – エグゼクティブ要旨

食糧の安全保障と変換的開発における役割

食糧安全保障は、一般に福音への応答あるいはコミュニテイの健全を決定づける問題とは容易に見られない。しかしながら、健全さと福音への応答は、食糧の安全保障と強い関わりがある。

食糧の安全保障は、変換的開発、とりわけ長期的に持続可能な変換に極めて重要な役割を果たす。今日の多くのキリスト教開発機関の全人的な統合開発計画は、十二分に発展を遂げ、生計と安全保障とがその計画プログラムに影響力を与えるにふさわしい場所を占めつつある。 もし私たちが地球規模の貧困を半減させる「ミレニアム開発目標」の達成に向けて行動しなくてはならないとするなら、私達は食糧の安全保障について考慮する必要がある。

キリスト教開発機関は、コミュニテイが食糧を求めて、他の地域に移動する必要がないように、食糧がひとつの地域で入手できるようにする創造的な「労働のために食糧を」計画を利用することができる。この計画は、また、道路や池等のコミュニテイの資産を新たに創造するプログラム「労働のために食糧を」を導入することができる有利な手段となるように用いられる。

地域経済に影響力をもたらし、地域の穀物生産促進のために積極的に用いられない食糧援助は、地域社会を受身にし、外部からの援助に依存的になる。そして、つまるところ食糧入手が犠牲となる開発的な働きを通し、福音のためを含めて、益よりは害を与える。

通常のコミュニテイでは、食料安全保障は資産の創造に密接に結びついている。個人や家族が生産した余剰の食糧は、資産の売買に用いられる。資産は貯蓄の手段である。余剰の食糧から資産を創造し、危機の際には生産され、食料安全保障に不可欠な、革新的な部分となる。コミュニテイと協力して食糧の安全保障がなされるようにする機構は、食料安全保障のプログラム化を考慮しなくてはならない。

食糧の安全保障を保証するとは、また、性の平等をもたらすことも意味する。なぜなら、家族に適切に食糧を提供するとは、平等に分配される必要があるということだからである。

世帯の食糧安全保障の状況と福音への応答には、相関関係があることは驚くに当たらない。貧困ライン以下の世帯は、大きな戦いがある。極貧がもたらすインパクトは、多数の活動領域に絶えざる抑圧があるようなもので、士気をくじき、人々に希望を失わせ、生き抜くために必死に対策を求める。このような人たちが絶えず救い主を求めている人たちなのである。

福音は全人的かつ不可欠なものであり、「良い知らせ」を貧しい人たちに告げ知らせることである。クリスチャンとしての私達にとって、それは、私達の行動全てにおいて福音を告げ知らせ、証明するようにする核心的ミッションへの呼びかけである。著者の属する団体であるMAPインターナショナルは、最近、開発途上国の更に多くの教会を、コミュニテイで、核心的なミッションに参加させるために、教会の職務を増やし始めている。

神は、新しい手段と戦略を、とりわけ、教会とその会衆たちが世帯レベルの食料安全保障を樹立することを通して、変換的な開発をもたらすことに従事するようにしてきた。この情報をローザンヌ国際動向分析の読者たちと分かち合い、また全体の一部として不可分なミッションに関心を持つ人たちと分かち合えることに喜んでいる。

世界教会協議会総会の余波:韓国の教会分裂を乗り越え、グローバルな福音派の協力を奨励する

2013年10月20日から11月8日まで、韓国のプサンで、第10回世界教会協議会総会(WCCGA)が開催された。韓国準備委員会は、280万人のWCCの支持を得た。

2011年早々、韓国の保守的な福音派教会と教派は、WCCGAに反対の表明をした。WCCGAに反対する大衆デモがソウルとプサンで起こり、WCCの自由主義神学を批判した。反対派の指導者は、韓国ハプトン長老派教会で、300万人信徒を有する最大の保守長老派教団とみなされている。

この教会は、世界で最も神学的に保守的な教会の一つである。しかし、韓国の福音派の指導者たちの中には、もっとリベラルなトンハップ教団内にとどまり、WCC内で積極的な福音主義的影響力を与えることを選択した者もいる。それとは対照的に、より保守的なハプトン教団は、WCCのリベラル派たちと関係することは、妥協すること、歩み寄ることである、と考えた。このような状況下にも関わらず、南側諸国の、とりわけ急速な教会成長を遂げているアジアのWCCは、韓国を、WCC総会のホスト国に選んだのである。

WCC総会終了後、韓国教会は、かつてないほどに分裂する可能性があり、トンハプ教団とハプトン教団の不和が深刻になりそうである。更に、2月11日に、世界福音主義連盟(WEA)総会の韓国での開催延期が発表された。WEAの声明は、”韓国の福音主義共同体内の不和である”とした。

WCCGAは、エキュメニカル運動の重心は衰退するキリスト教国から南側諸国の成長する教会へ移行したとしており、WCC内のリベラルな指導者たちは、教会管理、財務、神学校の教育の領域を管理運営してきている。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの福音的リーダーたちは、WCC内のこれら三つの地域の霊的影響力を増大させる必要がある。

ローザンヌ運動(LCWE)が果たす役割は、ますます重要になるであろう。 LCWEは、WEA内の福音派教会と、WCCの神学と礼拝に不満を抱いているWCC内の福音派の指導者たちとの間に一致をもたらすよう支援できる、

ローザンヌ運動の福音派リーダーたちは、世界の福音派教会間に協力関係をもたらすため、WEAと緊密な協力関係を持ち、過去三回のローザンヌ会議は、世界中のすべての福音派指導者たちを結びつけ、世界の福音化の課題を話し合う集会の好例となっている。

一つには、WEA委員会を通じてWEA関連の教会と密な協力関係を持つことである。このような協力関係は、さまざまな福音派同盟や団体に関連する草の根主義教会や教会指導者たちの支持を得るであろう。LCWEの福音派リーダーたちは、WCC内の福音派の牧師や教会に門戸を開くことができる。なぜなら、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカのエキュメニカル ムーブメント内にある殆どの教会は、神学的に保守的であり、福音的な協力を求めているからである。

WCCに関係しているか否かにかかわらず、福音派教会にとっての重要な課題は、大宣教命令という大きな目的のために、共に働くことである。教会全体が、世界全体に、福音のすべてを携えて行かなくてはならないのである。

スポーツ・ミニストリーと福音主義: どうしたらキリスト顕現と奉仕の重視が効果的な福音主義の支えとなるか

現代の社会でスポーツの重要性を否定することは、道理をわきまえた人であるならできない。今年6月から7月にかけて、FIFAのフットボールワールドカップがブラジルで行われる。2010年のワールドカップは、世界中にTV放映され、世界人口の46.4%が少なくとも試合の一部を観戦した。

スポーツ・ミニストリーは、大別して、「スポーツに対するミニストリー」と「スポーツを通じてのミニストリー」に分けられる。

「スポーツに対するミニストリー」は、イエスの名によってスポーツに仕えることを意味し、スポーツ・チャプレンは、この良い例である。これによって、エリートのスポーツ人に、クリスチャンらしくスポーツをし、また教会に彼らを導くようになると、競争はやみ、日曜礼拝に出席するようになる。

「スポーツを通じてのミニストリー」は、スポーツを福音主義の機会と捉えており、これには、福音的な目的をもってスポーツ行事を行ったり、福音的メッセージを持ったクリスチャン・アスリートのあかしを用いたチラシやビデオのような資料を配付したりすることが含まれる。

近年、クリスチャンは、自国や出身都市で行われる大きなイベントを、奉仕やあかしの機会の可能性として捉えている。この種のミニストリーは、1990年代に始まり、近年、特にオリンピックやフットボールのワールドカップで大きな成長を遂げている。

2012年のロンドン オリンピックでのチャプレン プログラムは、オリンピック大会で行われた中で最も総合的なもので、しもべの心を持ったクリスチャンが、オリンピック組織委員会と協力して、大会をより価値あるものとしている。これは、大きなスポーツの組織委員会のしもべの心を持った態度が、しばしばどのように評価されているかを表し、クリスチャン社会とスポーツの管理責任者間に橋をかけることができるのである。

クリスチャンがスポーツ界に入るスポーツ・ミニストリーを、キリスト顕現の模範にしようとするのは、第一コリント9:19~23で、パウロが強調している点を反影しているが、 時間的にも、またどれだけ関わろうとするか、という点で相当の決意表明がいる。これは、ひとつのプログラム/行事/”私達のもとに来なさい” というアプローチを、時として強調することができる他の福音主義の分野にとって、ひとつの教訓である。

福音主義のキリスト顕現的アプローチを支持すること、教会にいるアスリートに、スポーツを通じた友人や地域のスポーツクラブに、教会の福音伝道者となってくれるようにするのは、教会が地域のスポーツ コミュニテイと働く効果的な戦略となりうる。

他の福音主義の領域に応用できるもう一つの教訓は、スポーツによるミニストリーで奉仕することを強調することは、多くの障壁を取り除き、他の福音主義の機会に門戸を開くことができるということである。このようなアプローチは、短期間に成果は上がらないかもしれないが、長期的には良い成果を生み(例えばスポーツ・チャプレンを通じて)、福音の影響力増大につながる可能性がある。

教会は、またスポーツを通じて、例えばボランテイア、コーチ、牧会ケアあるいは地域のスポーツクラブ、学校、大学に、会合の場所を提供することを通して、コミュニテイに仕えるべきである。また、この時点までに生まれた障がい者スポーツを大切にし、優先するよう意識的に決定するとよい。

ナショナリズムと福音主義のミッション:福音派リーダーに対する課題

ナショナリストや愛国心はクリスチャン・リーダーにとってたびたび頭痛の種となり、多国籍から成るチームをマネジメントする責任を持った教会や宣教団体のリーダーたちに、他ならぬチャレンジを与える。このようなことから、世界宣教という文脈において、ナショナリズムの影響やその意義を理解する必要性が求められている。

一般の人が恐れにさいなまれる一方で、教会はしばしば、神の国のビジョンを示すことに奮闘している。ある場合には、教会は、意図的であっても、そうでなくても、ノンクリスチャンの移民が流入することを何とか防ごうとする愛国的な同盟のようになっている自身の姿に気がつくことがある。とりわけ、ナショナリストは、事実上、世界中で見られるような、均一化の勢力に逆らって異を唱えるものである。グローバリゼーションに抵抗するために、ナショナリストは大抵、「フロンティア」という神話や、「神聖な起源」という神話といった、神話的な主張を代わり用いるのである。

ローザンヌ運動が、情熱という推進力を得ながら、世界規模の一つのキリストのからだというビジョンに仕えていることは、全く適切なことであり、神の国のビジョンに相応しいものである。しかし、国家の利益や福音派グループの方針と、ローザンヌ運動のリーダーたちが力説するグローバルの方針との間に、常にバランスを保つことが必要である。

世界各地に局在するミッション・チームは、争いが起こっている国家、例えば、現在のロシアやウクライナといった国からメンバーを受け入れることもあるだろう。賢明なチーム・リーダーであれば、愛国心や国家主義的な感情を中心として取り巻く「断層線(地震地帯)」のように、チーム内の白熱した議論に備えをするだろう。

どのような国においても、国家利益の核心的な部分については、他国のマスメディアによって報道されるものではない。とはいえ、多文化と関わり合うクリスチャンの賢明な働き手は、ナショナリズムがその醜い姿をあらわにし、信頼できる証を台無しにしてしまう恐れについて、常に警戒している必要がある。

無論、信仰を持ってイエス・キリストに付き従う人にとって、ナショナリズムが悪となり得るのは、国家のアイデンティティを他国に対して振りかざす、求心力のある道具としてキリスト教を用いる場合においてである。信頼のおける、賢明なマスメディアの解説者であれば、一般的、あるいは政治的な対話において、宗教のそのような影響を認識するだろう。

福音主義者は、時折、自国の政府と結束することを選ぶこともあるが、そうすることは必ずしも悪いことではない。しなしながら、他者に自分たちと同じ人権を認めないような倫理的な偏重や、政治的な優位性を意図するものであれば、国家のために協同することはできない。

この考え方は、国家についての聖書神学を反映するものである。すなわち、神の偉大な創造の働きが現わされたこと(創10:32)、著しいごう慢に対して悲嘆があったこと(創11:4)、神の宣教の働きの中心に据えるという宣言があったこと(創12: 2-3)、全ての国々をキリストのからだとしてひとつに集めること(黙 7:9)などに基づく。しかし、最終的には終末論のシナリオとして国々が神の前に降伏し、裁き(黙19:15)を受けると結論付けられる。クリスチャンのアイデンティティと忠誠心は、常にただキリストだけに対するものである。その他のどのような忠誠の形態も一時的で、いずれは廃れ、最終的には全ての国と民族の裁きの際に、意味のないものだと露呈するのである。

私たちが本能的に感じ取る、あるいは同労者や私たちが仕える人に対して表す、あらゆる不公平や優位性について悔い改める必要がある。また、私たちのミニストリーやミッション・チームにおいて、ナショナリストによる緊張関係の源となり得るものの特定に取り組まなければならない。そして、ナショナリストによる緊張関係を体験するだろう場所に送り出されるチームに対して、訓練を提供する準備をしておかなくてはいけない。

Checkpoint におけるキリスト:イスラエル-パレスチナ紛争に対する福音派の対応の変化

今年の3月、世界中から600人以上の代表者がキリストのためにベツレヘムに集まり、Checkpoint (CATC)2014に参加した。この会議は3回目の開催であり、イスラエル-パレスチナ紛争という文脈において、「イエスだったらどうするだろう?(What Would Jesus Do?)」という問いに答えようとするものであった。Bethlehem Bible Collegeが会議を主催し、幅広い分野の神学者および政治学者を招聘し、現代で最も複雑に政治が絡んだこの紛争に対して、福音主義のクリスチャンがどのように応答すべきか、講演を行った。

これまで長い間、クリスチャン、特にアメリカのクリスチャンは、最も強力にイスラエルの政策を支持してきた。しかしながら、CATCとそれにまつわる討論によって浮き彫りにされたことは、福音主義のクリスチャンがパレスチナ側の言い分と神学的な考え方を多く受け入れており、よりバランスの取れた受け入れ方ができるように求めているという事実である。

会議のテーマは「あなたの御国の到来」であり、その意味合いは参加グループによって異なったが、パレスチナのクリスチャンから、メシアニック・ジュー、メノナイトから改革派の福音主義者、そして、ディスペンセーショナリストに及んだグループが参加した。主要な神学的解釈の食い違いは、シオン主義のクリスチャン、すなわちユダヤ人が聖なる地に戻ることは聖書の預言が成就することであり、従って、クリスチャンは政治的にイスラエルを支援すべきだと主張する者と、それ以外のクリスチャンとの間に生じた。

しかしながら、多様性はCATCに有益であったと、Bethlehem Bible Collegeの創設者であるBishara Awad氏は述べている。幅広い神学的な解釈があったにも関わらず、平和の実現に尽力することについては、CATCの参加者の間に一致が認められた。

イスラエル-パレスチナ紛争においては、異なる言い分を理解することが和解への鍵である、という見解が会議で認められた。クリスチャンは自分の敵を自分の隣人、兄弟、友人のように見なして愛しなさいと福音は招いている。終末論の神学的解釈の違いによって、クリスチャンが不正を拒み、自分たちを傷つける者をも愛する、という献身が妨げられてはならない。

誰が私の隣人だろうか?誰が私の敵だろうか?このような問いによって、議論はイスラエルとパレスチナについてだけではなく、政治的に混乱した地域におけるキリスト教、および中東におけるイスラム教の台頭といったことについてもなされた。その答えは一貫していた。すなわち、全ての人が私の隣人であり、私の敵は誰もいないということである。演者たちは、抵抗や報復ではなく、受け入れることを訴えた。

CATCを主催したのは、パレスチナのクリスチャンであったが、彼らBethlehem Bible Collegeを創設し、現在はその学校を主導している。彼らはイスラエルのパレスチナ占有に対して最も明確な見解を持った演者であった。彼らの言い分と、パレスチナで主流となっている主張との間の違いは、パレスチナのクリスチャンは、「相手」を征服したり、武力によってではなく、相手を愛することによってこの占有を終わらせる、というものであった。

CATCでは、「神の国についてのイエスの教えを携えて、責任を持ってイスラエル-パレスチナ紛争の解決の支援に従事できるように、福音主義者をチャレンジする」ことを追求した。今や、イエスに付き従う者は、自身の召しを真剣に捉え、このような国々の問題に前向きに取り組み、平和をもたらす者となる時が来ているのである。もし多くのクリスチャンがこのような姿勢を育み始めることができるならば、中東で待ち焦がれている希望というものを私たちは見ることができるだろう。